ホセ・リサール その2

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フィリピン人だったらだれもが知っている英雄、ホセ・リサールについての続き。

リサールはフィリピン人といっても中国人や日本人の血を引き継いでいて、来日時には日本人と間違われて話しかけらたという。いわゆる彫りの深い顔で、かなりモテたらしい。

そんなリサールが1888年の来日時、滞在していたスペイン公使館の近くでよく見かける女性に声をかけた。それが「おせいさん」だ。おせいさんはとても良い家柄の人で、英語とフランス語がある程度できたという。だからこそ2人は急速にその仲を発展させたのだろう。二日間だけの滞在予定がいつの間にか1か月半にもおよび、歌舞伎に行ったり、日光やら箱根に行ったりなど、さまざまな日本文化に触れている。

さて、リサールは生前「おせいさん」の存在については誰にも打ち明けることが無かったため周囲は全く知られていなかったが、リサールの死後に遺品を整理していた遺族が日記の記述と一枚の写真を見つけ、一躍知られるようになった。それがこの写真だ。

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後年、この話が日本の歴史家の耳に入り、追跡調査がなされた結果「おせいさん」は臼井勢以子という人だということが判明。しかし、おせいさんもまたリサールについて生前誰にも話をしたことがなく、おまけに戦時中の戦火で身の回りのものが焼けてしまい、日本側からリサールとの関係が知られることがなかった。

おせいさんのことを調べていて、ふと気がついたことがある。おせいさんはその後、アルフレッド・チャールトンというイギリス男性(のちに学習院大学英文科の教師)と結婚しているが、それがリサールが処刑された翌年の1897年で、おせいさん30歳の時。つまりおせいさんはリサールが死ぬまで結婚しなかった、ということになる。

明治という時代で30歳の結婚はかなり遅いはずだ。山田耕作のメロディーで有名な「赤とんぼ」で「十五でねえやは 嫁に行き」の歌詞でさえ大正10年の話なのだ。

しかも外国語が出来るような良家の出身であればなおさらのことお見合いや縁談などの話はひっきりなしだったはず。リサールの処刑は日本でも新聞で報道されたから、長年結婚を踏みとどまっていたおせいさんを最終的に決断させたのはこの新聞報道だった可能性は高い。

おせいさんは昭和22年に80歳で亡くなったが、生前は切手集めが趣味だったようで、その中にはフィリピンの切手も多く含まれていたという。当時フィリピンで発行されていた切手のデザインにはリサールの肖像もあったから、おせいさんがリサールの切手を持っていた確率もかなり高いだろう。

さて、おせいさんとアルフレッド・チャールトン氏のお墓は、かつてテクダイヤの本社があったサンシャイン60のすぐ近く、雑司が谷霊園にひっそりと佇んでいる。遺族が誰も墓参りには来ないようだが、フィリピン大使館がリサールの誕生日(6月19日)には花を手向けているという。

 

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さて最後に、ホセ・リサールが日本を離れる時に書いた日記の記述をご紹介しよう。

日本は私を魅了してしまった。
美しい風景と、花と樹木と、そして平和で勇敢で愛嬌ある国民よ!
おせいさん  さようなら   さようなら
思えば私はこの生活をあとにして、
不安と未知に向かって旅立とうとしているのだ。
この日本で、私にたやすく
愛と尊敬の生活が出来る道が申しだされているのに。
私の青春の思い出の最後の一章をあなたにささげます。
どんな女性も、あなたのように私を愛してはくれなかった。
どの女性も、あなたのように献身的ではなかった。
もうやめよう。みんなおしまいになってしまった。
さようなら、さようなら。