今回はフィリピン歴史シリーズ(笑)。もはや人事担当のブログとは思えまい。
マゼランのセブ上陸によってセブの王フマボン以下家臣たちがキリスト教の洗礼を受けた話は、サントニーニョ人形のところで触れた。しかし、ヨーロッパ人のマゼランが初めてやってきたアジアの国でどうやってコミュニケーションを取ったのだろうか。
これには種明かしがある。マゼランは以前ポルトガル遠征隊としてアジアに到達した際にエンリケという奴隷を買っていたのだ。エンリケが生まれたとされるのは、現在のマレーシアまたはインドネシアあたりとされる。
マゼランはもともとポルトガル人。ポルトガルといえば日本に鉄砲を伝来させたことでもわかるように、既に東廻り航路でアジアへのルートを確立していた。ポルトガル王としてはいまさら西回りへの冒険に大金をはたく気は無い。マゼランの西回りルート計画はあっさり却下されてしまった。
そこでこの西回りルートの話をもっていった先がポルトガルのライバル国スペイン。東周りルートをポルトガルに支配され悔しい思いをしていたスペイン王はマゼランにその望みを託したのだ。
すると、東回りで連れてきたエンリケが、西廻りで到達したフィリピンで、現地人と会話することが出来た。こりゃ世界一周してるじゃん、とそこで気がついたわけだ。
フィリピンの言葉はマレー語と共通の単語が幾つもある。もちろんすべてが完全に通じていたわけではない。さしずめ、音読みの日本の漢字が韓国や中国でも通じる程度だろう。それでもなんとか意思疎通はできる。遠路はるばるいくつもの国を渡ってきたマゼランが、初めてセブで現地人と仲良くなれたのにはそういうカラクリがあったのだ。
これには後日談がある。
マゼランは生前遺書を書いていて、自分がもし死んだらエンリケにお金を与えた上で開放する、としていた。だがマクタン島でマゼランは殺されてしまったにも関わらず、部下たちはエンリケを開放しようとはしなかった。
裏切られたエンリケは復讐を企てた。フマボンらに「マゼランの部下たちはセブ人を皆殺しにして征服する計画だぞ」と囁いた。それでフマボンはマゼランの部下30名程を食事に招いておいて殺してしまったのだ。
記録によればエンリケのその後はわかっていない。スペインに戻っていないことは確かだ。そのままセブにとどまったのか、それとも故郷に戻ったのか、一切謎である。