KANO

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ようやく日本でも台湾映画「KANO」のDVDが発売された。これは1930年代、嘉義農林学校という台湾の高校が甲子園に出場し準優勝したという事実を元にした映画だ。昨年からテクダイヤ 台湾事務所社員も「KANOスゴイですよ」と盛んに話題にしていたのでようやくという感じだ。

台湾の親日ぶりは有名な話だが、実際に仕事で台湾を訪れた時にもその手のエピソードには事欠かない。

それは私がまだ技術系の仕事をしていた10年以上前の話。台湾出張でお客さんの仕事を終え、次のお客さんのところへ移動するため田舎道を車で走っていた。使っていた道具(レンチ)がかなり摩耗して使い物にならなくなっていたことを思い出し、ふと見つけた金物屋に入ったのだ。

私達は日本人の出張者2名と現地の社員。広々とした薄暗い店内を手分けして、お目当ての工具を探していた。店内で私たちは大きな声で「そっちにあるか~?」「いや、無いですよ~。どこですかね~」などと日本語で話をしていた。すると奥の方から結構な年齢の男性が現れ、はっきりした発音の日本語で話しかけてきた。

「何をお探しですか?」

台北のような都市部ではない。田舎も田舎。いきなりの訛りの無い日本語に遭遇してぎょっとした。

「日本語出来るんですか?」

そう尋ねるとご老人は息せき切ったように話を始めた。

話を端折ると戦前に日本人の教師から日本語で教育を受けたとのこと。当時、台湾では教師をやれるほどの教育を受けた人が少なかったから、たくさんの日本 人が台湾に教師としてやってきたのだそうだ。場所が場所だけにおじいさんは日本語を使う機会が少なく、めったに見ることの無い日本人に会い、懐かしくて話が止まらなくなったそうだ。

「鈴木先生が国語を教えてくれて、三浦先生が算数を教えてくれてねぇ」と個人名で話をするが、鈴木先生も三浦先生も全くわからない(笑)。が、その様子は本当に楽しい思い出を懐かしむようで、こっちまで幸せな気分になった。

おおむねこの時代の人たちは日本が酷いことをした、という人は居ない。もっと詳しいことを知りたい人は蔡焜燦さんの「台湾人と日本精神」という本をおすすめしたい。生まれた時から日本語で教育を受け、今でも日本語で夢を見るという世代の人たちの物語だ。

さて映画KANOの話にもどろう。

戦前、甲子園には台湾だけでなく朝鮮、満州からも出場していたということからも、日本がそれらの開拓地を不当に差別していたのではないことがわかる。開拓地や植民地、特別地域という概念ではなく、明らかに日本の一部だと考えていたはずだ。

真珠湾攻撃の際に軍が使った電文「ニイタカヤマノボレ」(新高山登れ)の新高山とは、今で言うところの台湾の玉山のこと。台湾最高峰の玉山は3,952mで富士山より高い。つまり、当時の日本では「一番高い山に登れ!」という意味になる。もし日本が台湾や朝鮮に差別意識があったら、おそらく「富士山登れ」という言葉になっていただろう。そうじゃないところに、当時の人たちの意識が見て取れる。

KANOはあまり日本のメディアでは取り上げられない感じがするのだが台湾と仕事をする人にとっては見ておくべき映画だ。