センスは知識からはじまる

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かつて私がテクダイヤ埼玉工場に居た時代の話

とあるお客さんからテクダイヤの製品であるダイヤモンドツールの形状の問い合わせがあった。ブリリアントカットほど複雑ではないにしろ、このダイヤモンド工具の先端部分は複数の面で構成されている。現物を計測するという安易な方法もあるが公差の問題もあるから計算で理論上の理想値を出さなくてはいけない。

私はもともと数学が苦手だ。高校では5段階で1という不名誉な成績を取ったこともある。国公立進学コースに通っていたくせに結局私立大に進んだのはそのせいだ。

であるからして、このお客さんからの難問にははたはた困ってしまった。自分の担当の仕事だから他部署に押し付けるわけにはいかない。おまけに文系学部かつジャズ研出身者の私の周りには個人的にも数学の得意な人は居ない。

結局丸2日、他の仕事を全部放ったらかしにして三角関数から勉強しなおしつつエクセルの計算式を駆使し、30行ほどの大げさな式でなんとか算出した。しかしこれが合っているのかどうか確証がない。

ちょうどその頃、取引先のLさんというカナダ出身の物理学博士号を持っている人が工場を訪れたので相談してみた。

「帰りの電車でちょっとやってみるよ」

そう言ってLさんは工場から帰ったのだが、数時間のちにメールが来た。

「多分これで合ってるはず」

30分も満たない時間で計算したという式はわずか3行の簡単なものだった。計算してみると私の式とほぼ近似値の結果が出る。私の計算式が合っていた感動より、つくづく自分の数学のセンスの無さに劣等感を感じざるを得なかった。

 

という具合に、ここでセンスの有無を論じるのは、実は愚かな話なのだ。そのことに気づいたのはくまもんを産んだ水野学氏の著書「センスは知識からはじまる」を読んだからだ。

私は数学のセンスが無いのではない。単に数学の勉強が足りないだけだ。これはどんな分野にも言える。音楽のセンスが無い、洋服のセンスがない、運動のセンスが無い、文章のセンスが無い、などという言葉の影には「おまえどれだけやったことあるんだよ」という不勉強や練習不足の側面が必ず隠れている。

 

自分の不勉強を棚上げにしてセンスが無いなんて言うのは怠慢以外のなにものでもない。そう考えれば一般的な会話で使われる「センス」や「才能」は、ほとんどの場合で努力の有無で置き換えができることに気づく。

やるのか、やらないのか。やりたいのか、やりたくないのか。そこに目を向けないことは全くナンセンスだ。