我々の工場があるセブは、フィリピンで一番歴史のある都市である。世界一周で有名な冒険家マゼランが香料を求めてヨーロッパからセブに到達したのが16世紀の始めのこと。日本の歴史でいえば安土桃山時代だ。マゼランのスポンサーはスペインだから西回りでアジアに到達しているが、ポルトガルはそれよりも前に日本に東周りで到達して鉄砲やキリスト教を伝えている。
さてマゼランの一行の中にはカソリックの神父も居て、セブの王様フマボン以下400人が洗礼を受けた。その時、王妃にプレゼ ントしたとされるのがこのサントニーニョというイエスの若い頃の人形である。これがフィリピンで一番古い教会でもあるサントニーニョ教会に今でも大切に保管さ れ、無料で一般公開されている。セブの守護聖人なのだ。
セブではタクシーでも一般家庭でも、このサントニーニョの人形のミニチュアがちょこんと置かれていることが多い。お守りのようなものだ。
しかし最近ひとつの疑問が浮上。マゼランの航海の目的がキリスト教の布教だったとしたら、サントニーニョ人形はセブだけでなく航海の途中あちこちの国で配っていたのではないだろうか?駅前でパチンコ店宣伝のティッシュよろしく手当り次第に配っていたとなれば船にはたくさん人形を積んでいたのだろうか?
それで気になり調べてみた。結果はこうだ。
マゼランはフィリピンに到達する前から訪れた島々で現地人の抵抗を受けている。それほど順調に航海が進んだわけではなかったのだ。そんな中、セブの王様フマボンとは非常に親しくなり何度も抱擁しあうほどだったという。マゼランはよほど感動したのだろう。だから船に積んでいた一体しかない貴重なキリスト像の人形サントニーニョを贈り物としたのだった。さしずめ船の守り神だったに違いない。
幸運のシンボル、サントニーニョ人形を渡してしまったためかマゼランは、セブから海を挟んで数キロしか離れていないマクタン島の酋長ラプラプに殺されてしまった。セブ王フマボンも、マゼランの部下たちとは信頼関係を結んでいたわけではないようで、マゼランの死後に宴と偽って部下たちを招いて殺してしまった。
その後、スペインから何度か船団がやってくるものの島民たちは抵抗を続けた。平定されるのはマゼランの死後40年以上も経った頃のこと。スペインからやってきた征服者レガスピが街を破壊してセブを侵略。この時、焼き払った家の瓦礫のなかから箱に入って大切に保存されたサントニーニョ人形が発見された。この人形の発見場所に建てられたのが現在のサントニーニョ教会というわけだ。時代はすでにフマボンの息子の代になっていた。
英語のwikiを見ていたら面白い記述をみつけた。セブのサントニーニョ像とそっくりな像がパリのルーブル美術館にあるという。それがこの写真。
確かに左手で持っている小さな地球儀や、足の格好などはそのまんま。でも、もともとは裸の像だったとは驚きだ。裸のサントニーニョはまるで花見に来て酔っ払って服を脱いだ酒瓶を持つ外人客のようだ(笑)。製造は今のベルギーで、クルミの木で彫られた像におそらく胡粉のようなもので色付けされているらしい。大きさもほぼ同じことから、同じ工房で作られたものではないかと推測されるとのこと。
ルーブル美術館で飾られるほどの逸品なのだから、船に何体も積んでいたわけはないだろう。また、当時の航海は命がけの冒険。生存率からすれば今の宇宙旅行よりも、また8000メートル級の登山よりも危険な旅でもある。船の守り神として載せていた最高級品に違いない。
またそんな逸品を贈られたフマボン王も驚いたはずだ。時代は16世紀の初頭。東南アジアでまだ精緻な工芸品も無い時代に、これほど精巧につくられた人形にはさぞ腰を抜かしたに違いない。
大切な宝物を贈ったマゼランと、これまた大切に保管していたセブの人と、そして偶然焼け残って発見されたという不思議な縁が、なんとも奇跡的でロマンチックな話である。かくしてフィリピンにキリスト教が伝来したのだった。