無国籍と多国籍

全米選手権で活躍が期待されていた錦織圭選手が一回戦負けしてしまった。今年こそは、と思っていたのでとても残念だ。

彼が昨年、日本人選手としてグランドスラムの大会で決勝まで進出したことは偉業であるが彼が本当に純粋な日本人プレーヤーかという点では疑問が残る。それは13歳から渡米し名門ニック・ボロテリー・アカデミーに入学後、ずっとアメリカを本拠地としているからだ。

女子のマリア・シャラポワもロシア出身だが、やはりジュニア時代にニック・ボロテリー・アカデミーに入学。彼女もロシア人選手という形容はピンとこない。

ここ30年ほどのテニス界は、ラケットの進化によってテニス選手のプレイスタイルが大きく変化した。ラケットのサイズが今ほど大きくなく、また素材も木しかなかった時代は、ラケットの真ん中にきちんとボールを当てないとちゃんと飛んでいかない。テイクバックもフォローするーもしっかりするという基本を誰もが守らなければいけなかった。今やスニーカーの名前でしか有名ではないスタン・スミスやグランドスラマーのロッド・レーバーらの時代の話だ。

そこに第一の変化をもたらしたのはグラスファイバーやカーボン、ボロン、そしてアルミやスチールといった新素材の出現だ。これが80年代頃の、いわゆるビヨン・ボルグ、ジミー・コナーズ、ジョン・マッケンローというパワーテニスを産んだ。だがラケットサイズはまだ小さく、各選手非常にユニークなフォームをして打っていた。

それが「デカラケ」と言われるオーバーサイズのラケットの出現でプレイスタイルが均一化された。錦織選手のコーチで有名なマイケル・チャンやアンドレ・アガシといった選手からがそれに相当する。このあたりから全選手のプレーに、かつてほどの特徴を見せなくなってくる。

現在、もはや日本人らしい戦い方とか、オーストラリア流のテニスとか、フランスらしいプレーとか、そういう言い方はふさわしくない。昔はテレビを見ても選手名を確認するまでもなくすぐに誰の試合なのか判別できるほどだったのに、今はパッと見ではわからない。

ビジネスでもボーターレス化は進んでいる。カルロス・ゴーンのことをレバノン人とか意識する人はほとんどいないし、それが経営のやり方に反映するという話も聞いたことがない。テスラモーターズのCEOにして映画「アイアンマン」の主人公トニー・スタークのモデルにもなったイーロン・マスクは南アフリカ人だが、誰も「さすが南アフリカ人だ」とか「南アフリカらしい」などと話題にしない。

が、国籍が問われないからといっても優秀なビジネスマンに大事なのは、多国籍化であって無国籍化ではない。

どの国に居ても相手を理解し敬意を払わなければ、経営だろうと販売だろうと研究だろうと、絶対に受け入れられない。無国籍流の身勝手な押し付けは単なるテロ行為に等しい。押し付けが無いとしても自分の住んでいる国や故郷に対しての理解や敬意が無いのも国際人として尊敬されないだろう。

私も仕事柄いろんな国の人と話をするが、その人がどこの生まれであっても、またどこの育ちであっても、自分の祖国、母国、ホームグラウンドのことについて語れない人はあまり尊敬できない。まるで勉強しない小中学生と話をしているようで、1人の社会人として物足りない。同じように、海外を訪れる我々のことを、相手の国の人は見ているはずだ。

多国籍料理はあっても無国籍料理というのはない。あっても不味そうだ。人も同じで、無国籍な人間とは付き合う価値がないと思う。